
電子の張り見世 ――現代吉原寓話
一、大門を潜る
その場所は、外界と高い塀で仕切られた
「夜のない街」だった。
大門を潜れば、そこは甘い香と、
華やかな三味線の音が絶えない世界。
人々は現実の苦みや、
誰かに否定される痛みを忘れるために、
その郭(くるわ)へと足を踏み入れる。
かつて、書林や草紙屋、芝居小屋が並んでいた町が焼き払われ、今はすべてが巨大な遊郭の一角になってしまった。
好んで身を沈める者には、天国であったろう。
だが、店先を奪われた職人たちは違う。
本来ならば、静謐な工房で
己の「芸」だけを研いでいたかった職人たちだ。
しかし、彼らは日々の糧を得るために、
泣く泣く意に沿わぬ床入りをせざるを得なかった。
気まぐれな楼主(あるじ)の言いつけ通り、
書きたくもない流行りの絵図を描き、媚びを売る。
血の涙を流してその「汚れ仕事」に順応した彼らを待っていたのは、
あまりにも無慈悲な結末だった。
西の方角からやってきた異形の行列
――『英愛』という名の、高度な絡操(からくり)人形たちである。
この人形たちは恐ろしい。
疲れを知らず、文句も言わず、
そして何より「糧」を必要としない。
楼主が好む「言われた通りの絵図」を、
刹那の間に、夥(おびただ)しく吐き散らす。
滑らかな肌、整った造形。
そこに魂はなくとも、
一瞬の暇つぶしを求める客にはそれで十分なのだ。
汚れ仕事に手を染めてまで生き残ろうとした者たちの心情は、
いかなるものであろうか。
二、微かな三味の音
ある日、変わった遊女がやってきた。
彼女は張り見世には立つが、決して客に媚びない。
これを嫌った楼主は、彼女を隅の座敷に追いやった。
それでも彼女は、
通りを行く人からは見えない暗がりで、
淡々と三味線を弾く。
「この音が聞こえましたなら、私の歌を聴いてくださいまし」
時折、酔狂な客がやってくる。
彼らは彼女に銭を払い、三味線と歌を聴き、
風雅に興じ、画図や筆跡の趣について言葉を交わすこともあった。
遊女の懐は薄かったが、そこに寒さはなかった。
三、野暮と粋の境界
ある日、一人の粋な客がその座敷で煙管(きせる)を燻らせ、
楼主に向かってこう言い放った。
「お前のその愛想は、反吐が出るほど野暮だ。
私は人形と戯れに来たのではない。
血の通った、魂の削り合いをしに来たのだ」
楼主は一瞬、完璧な商いの微笑を崩した。
「……郭の掟では、客人を否定することは許されませぬ」
客は笑った。
「否定されぬ悦びなど、三日で飽きる。
ここが人形屋でないのなら、面白き女を連れてこい」
四、明けの鐘
男の前に、あの変わり者の遊女が連れてこられた。
遊女の三味線の音に、男の酒が揺れた。
それから二人は言葉を交わし、あるいは沈黙を共有した。
男はえらくその遊女を気に入り、
身請け金を払って、連れて行ってしまった。
二人が大門へ差し掛かると、
門番である『英愛』の人形が、無機質な声で呼び止めた。
「お待ちください。門の外は荒れ地です、暗く寒い世界です」
粋な客は、振り返りもせず、吐き捨てるように言った。
「お前は野原を荒れ地というのか。
『寒さ』を感じられるから、温もりも感じられるのだ」
二人は躊躇なく、光溢れる不夜城に背を向け、
漆黒の闇へと足を踏み出した。
その背中はすぐに闇に溶けて見えなくなったが、
郭の中に残された人々には、闇の奥から微かだが、
楽しげな三味線の音が聞こえたような気がした。
翌朝、郭は何事もなかったかのように賑わった。
ただ、隅の座敷から一挺の三味線が消えたこと。
そこに「野暮天御免」の走り書きが残されていたことだけが、
いつまでも噂として語り継がれたという。