
「思考を止めるな。立ち止まることは損失だ」
田中 勉は、タブレット端末に並ぶタスクを指先で弾きながら、鼻で笑った。 駅前のラーメン屋に並ぶ行列。 たかが千円程度の食事のために、人生の貴重な三十分を無駄にする愚者たち。
彼にとって「待機」は病であり、「情緒」は生産性を下げるノイズでしかなかった。 田中は自称・フリーランスのコンサルタントだ。
実態は下請けのデータ入力が主な収入源だが、SNSのプロフィールには「ライフハック」「最適化」「タイパ至上主義」の文字が踊る。 そんな彼が、意識高い系のインフルエンサーが絶賛していた洋食店『バビロンズ・ゲート』を訪れるのは、必然だった。
予約サイトには、挑発的な文言が躍っていた。 『一般のお客様には非推奨。情緒を排し、本質的な栄養摂取のみを追求した、選ばれし賢者のためのスマート・ランチ』
(これだ。店側もようやく、俺たちのような「本質」を理解する層に媚びてきたか) 田中は鼻を鳴らし、予約をしていたのだった。
◇ 偽りの聖域
店はアールヌーボー風の洋館で、手軽な洋食を食べられる店として、地元のサラリーマンやOLに人気があった。 ちょうど平日の昼間、近接したビル街からやってきたであろうOLや観光客で店内は賑わっていた。
話題になったのは、庶民的だがやや高級に分類されるこの店が、新たに究極のコスパランチ「スマート・ランチ」をメニューに加えたことだった。 田中は受付のレジでにこやかに微笑む女性店員に名前を告げた。
「田中 勉さまですね」 店員はリストをチェックすると、レジ近くのテーブルを指さした。 「あちらです」 先ほどまでのスマイルも消えた無機質な表情で、そう告げた。
(案内もなしか) 田中はむっとしたが、これがタイパ・コスパを突き詰めた対応なのだ。 これが正解だと、席に着いた。
田中が着いた席は、レジと同じフロアにあった。 辺りを見渡すと、二階へ続く木製の階段があった。 そこには映画に出てくるような様式美があった。
そして、店の奥まった窓側の席は、全てレジのあるフロアより一段高くなっている。 その大きな窓には柔らかな明かりを通すカーテンがあり、どことなく異国情緒のある町並みが見えるようになっていた。
その一段高いエリアへ、可愛くデザインされた制服に身を包んだ店員が食事を運んでゆく。 通り過ぎただけで、素材の良さと熟成を感じる匂いが漂った。
「お待たせしました」 可愛い身なりの店員がチャーミングな動作で食事を並べてゆく。
「美味しそー!」「良い匂いだね」 「うん。席が取れなくて受付で待たされたけど、ここに来て良かったね」
◇ 剥き出しの現実
(ふん。食事は効率よく美味いものが食えれば良いのだ。それこそが俺が望む正解だ) 田中は何かに怯えたように、心の中で吐き捨てた。
その時、静かな店内に、あまりに家庭的な音が響き渡った。
――ピーッ、ピーッ、ピーッ。
それは、田中の六畳一間のアパートにある、安物の電子レンジと全く同じ通知音だった。 「お待たせ。スマート・ランチっす」
厨房仕事で汚れたジャージの青年がテーブルにやってきた。 動きもぎこちなく、どう見ても皿洗いか雑用のバイト学生だ。 無造作にテーブルに置かれたのは、黒いプラスチックの容器だった。
中には、冷凍食品のシュウマイと、端がパサついた白飯、そして申し訳程度のきんぴら。 どれもが、コンビニの廃棄弁当を詰め替えただけのような「残骸」に見えた。
「……これだけか?」 思わず漏れた言葉に、窓際のOLたちがチラリとこちらを見て笑っているのが見えた。
「あれだよね? 賢い人が頼む、究極の節約時短ランチって」 「そうじゃない? あんなのメニューに載ってるの?」 「予約専門らしいよ。待つ時間ももったいない人向けなんだって」
「へー。賢いって大変だね……」 「ねぇねぇ。ヤコが頼んだのって日替わりだよね?」 「そうだけど?」
「あれってさぁ、一日に三十食限定はないよね」 「えぇ? あれ解放しちゃったら、お店大損害だよ。コスト無視のサービスメニューなんだし」 「そっかそっか。インフルエンサーのカイが言ってたね。コスパじゃなくてコスト無視の最強メニューだって」
田中はメニューを間違っていた……
「バビロンズ・ゲート」が提供する「賢者のためのランチ」とは、まさに言葉通り、賢い者だけが回避できる踏み絵だったのだ。
◇ 虚栄の終着駅
田中の脳内にある「ロジカルな思考」が、激しく火花を散らした。 文句を言うべきか。 だが、それをすれば「コスパとタイパを理解していない愚か者」であることを自ら認めることになる。
店側は、田中のような「中身のない効率主義者」が、プライドゆえに反論できないことを完全に見抜いている。 田中は、割り箸を割り、冷えたシュウマイを口に運んだ。
舌の上で広がるのは、保存料の味と、電子レンジ特有のムラのある熱。 これを「最高だ」と言い聞かせる自分の姿こそが、世界で最も非効率な喜劇に見えた。
「……流石だ。無駄がない」 田中は、震える手でスマートフォンのカメラを起動した。
そして、プラスチック容器に美味しそうなフィルターをかけ、SNSにアップロードする。 『ついに見つけた、究極の最適化ランチ。愚かな行列に並ぶ時間は、もう私にはない』
投稿を終えた田中は、砂を噛むような思いで、昨日の残りのような白飯を飲み込んだ。 駅前では、相変わらずラーメン屋の行列が、楽しそうに談笑している。 彼らの「無駄な時間」が、今はどうしようもなく輝いて見えた。
◇ 賢者の「戦利品」
店を出た田中は、そのまま馴染みのPCショップへと向かった。 棚には、最新のCPU『雷電 7 Ultra-Optimal 3』の箱が並んでいる。 彼は迷わず、ミドルレンジの「Ultra 5」を手に取った。
「フラッグシップを買う奴は、メーカーのマーケティングに踊らされているだけだ」 彼はスマホでベンチマークスコアを叩き出し、一円あたりの数値を算出した。
この Ultra 5 こそが、現代における「コスパの頂点」である。 彼は、上位モデルを見せびらかす「愚者」たちを嘲笑しながら、意気揚々とレジを済ませた。
◇ 賢者にとっての時間
帰宅した田中は、自慢の戦利品をデスクに置き、SNS Z(旧Blue Bird)を開いた。 タイムラインのトップには、彼が師と仰ぐ「コスパの鬼」を自称するインフルエンサー カイの投稿があった。
新しい動画のサムネイルには、最上位の『雷電 9 Hyper-Chronos』――通称「ナイン・クロノス」と呼ばれるハイエンドCPUの箱が写っていた。 田中はぎょっとして、即座に動画を再生した。
動画のタイトルには『まだ「安さ」でCPUを選んでるの? 人生をドブに捨てないための、真・雷電投資術』と書かれている。 田中は震える手で倍速再生を始めた……。
画面の中のカイは、清潔感のある白いシャツを着て、穏やかな笑みを浮かべていた。 だがその目は、画面の向こう側の「持たざる者」を蔑むような光を宿している。
「皆さん、こんにちは。今日も人生、最適化してますか?」 「最近、新しいCPU『雷電』についてたくさんの質問をもらいます。特に『セブン(Ultra 5)でも十分ですか?』っていう質問。これ、すごく多いんですよね」
「正直に言いますね。……厳しいことを言うようですけど、『十分』なんて言っている時点で、あなたの成長は止まっています」 カイは、ティーカップを一口すすり、優雅に言葉を継いだ。
「皆さんは『コスパ』って言葉が大好きですよね。でも、本当のコスパっていうのは、安いものを買うことじゃない。『自分の人生の時給を、どこまで上げられるか』なんです」
「僕は迷わず最上位の『ナイン(Hyper-Chronos)』を買いました。なぜか? 処理を待つ一秒、一分が、僕にとっては耐え難い損失だからです。その浮いた時間で、僕は新しい知識を入れ、新しい価値を生み出す」
「セブンを買って『安く済んだ』と安心しているあなた。それ、実は『自分の時間を安売りしている』だけなんですよ。安い機材でちまちま作業して、浮かせた数万円で満足する。……それって、本当に『賢い選択』と言えますか?」
カイは、慈悲深い教師のような顔で、カメラに指を指した。 「僕は皆さんに、こっち側(成功者)に来てほしい。だからあえて言います。妥協してミドルレンジを買うのは、効率化のフリをした『ただの妥協』です」
「予算がないなら、無理をしてでもナインを買うべき。その『無理』が、あなたを次のステージへ引き上げるんですから。賢明な僕のフォロワーなら、この意味、分かりますよね?」
動画が途切れた一瞬。 田中の部屋には長い長い氷河期のような静寂が漂った。
田中は、デスクに置いたばかりの「Ultra 5」を見つめた。 自分が必死に計算し、合理性の果てに手に入れたはずの「賢者の選択」が、たった一本の動画で、惨めな「安物買いの銭失い」へと成り下がった。
そして田中は気づいていなかった。 自分が確信を持って導いたコスパの正解を、他人の一言で無価値にしてしまったのは、自分自身であることに。
◇ 賢者、最強のコスパを知る
思考ができなくなってしまった田中の前で、新しい動画の再生が始まった。 画面の中には、今をときめく若手歌手がいた。
「このギターですか? 僕が中学で弾き語りを始めた時に叔父さんがくれたんです。中学生にMartinは贅沢ですよね。だけどそれが嬉しくて、中高大学と十年間、ずっと使ってきました」
「だからコストは〇円ですね。時間はたっぷりあったから、ずっとこれ一本で練習してたんです」 無邪気に笑うシンガー。
田中が人生をかけて削り出してきた「タイパ」も、必死に計算した「コスパ」も。 田中の言う「無駄な時間」を積み上げたシンガーの圧倒的な現実の前に、塵となって吹き飛んだ。
◇ 賢者の選択
田中は、スマートフォンの画面を激しくスワイプした。 思考の混濁を断ち切るには、新たな情報を上書きするしかない。 感情にリソースを割くのは、彼にとって「最も非効率な損失」だったからだ。
田中は、そう考えたのだ。 ブラウザのタブに並ぶ、色鮮やかなセール広告。
そこには、かつて彼が「高嶺の花」と諦めた音楽制作プラグインが並んでいた。 『Winter Sale 90% OFF』――その赤い文字が、彼の眼窩に突き刺さる。
「……定価五万円が、今なら五千円。つまり、僕は今ここで四万五千円の利益を確定できる」 指先が、決済ボタンの上でわずかに震えた。
それは絶望を塗りつぶすための、麻薬のような合理化だった。 そもそも名器が九割引で売られるはずもない事実に考えが及ばないほどに、田中のコスパ理論は壊れていた。
マウスをクリックする音が、冷え切った部屋に小さく響いた。 手元には、使い道の見えない高機能なソフトウェアのライセンス。 胃の底には、いつまでも消えない冷凍シュウマイの脂っこい後味。
彼は再び、暗い画面の中にある「数字」の海へと漕ぎ出した。 その一秒一秒が、自分自身の人生を安売りするコストであること。その現実をもう二度と見ないために。