◇ 静止画の中で鳴る音
今朝ニュースを読んだ。
量子コンピュータの実用化が、予測より十年早まるかもしれないという話だ。
国家レベルで「量子化暗号対策」が静かに進んでいる。
世界の何かが、ゆっくりと、しかし確実に相転移しようとしている。
それ自体は、まあいい。
だけど、そこから派生した一行が引っかかって離れない。
「デジタル空間でアナログの揺らぎが再現できるかもしれない」――。
◇ 動いていない、ということ
ミュージシャンとして、これは笑い話じゃない。
今のアナログ・モデリングが何をやっているか、少し説明させてくれ。
真空管の熱雑音、ヴィンテージ回路の電気信号の振る舞い。
それらは極めて精緻な数式に置き換えられ、計算されて出力される。
同じパラメータで同じ信号を入力すれば、理論上は必ず同じ結果が返ってくる。
それが、デジタルの正体だ。
現実のスナップショット。静止画。それは動いていない。
だから、ミュージシャンは「それは違う。何か変だ」と感じる。
言語化できなくても、体が先に知っている。
その「変さ」の正体は、揺らぎの欠如だ。
自然界の1/fゆらぎ、入力に対する物理的な相関、熱と電気の即興。
そういったものが、記号の列には最初から存在しない。
◇ 状態の介在、ということ
量子技術が物理レベルで実用化されれば、話が変わる。
それはもはや、数式による再現ではない。
システムの内部で、微小な物理現象が実際に起きていることになる。
「演算の結果」ではなく「演算プロセスそのもの」が、不確定性を内包する。
ランダムという記号だったものが、本物の偶然を宿す。
計算機でありながら、その実態は限りなく自然現象の発生器に近い――。
デジタルとアナログの境界線が、物理レベルで融解する。
これが本当に来るのだとしたら。
但し書きを入れておく。
量子の不確定性がもたらすのは、純粋なエントロピーだ。
サイコロの目が完全に予測不能になるような、真の乱数。
それをそのまま音に適用しても、心地よいサチュレーションになるとは限らない。
量子論と工学の混同は、しないようにしたい。
だけど、方向性の話として。可能性の話として。
その扉が開く予感は、無視できない。
◇ 奪われるもの、奪われないもの
AIが登場したとき、打ち込みのパラダイムが揺れた。
量子コンピュータにAIがのったら、DTMは消えてしまうかもしれない。
PC上での音楽制作が、ちょっとした対話で完結するだろう。
だけど。
ステージで汗をかきシャウトする俺達のところに量子化は来ない。
マイクに向かって、存在を証明する彼女達の代わりにならない。
量子コンピュータが何台並ぼうが、そんなライブを見に来る客はいない。
それが現実だ。
量子論とは関係のない、人間達の領域の出来事だ。
絵画だって同じだ。
油絵の具が乾く匂い、筆の抵抗、質感を伴う切り絵のレイヤー。
俺が見たいのはそれだ、印刷された平面じゃない。
俺達が向き合う問いは、二極化していくだろう。
量子の仮想現象をどう扱い、どう利用するか。
それと同時に、自分の肉体が発する物理的な音をどこまで研ぎ澄ますか。
両極端に引き裂かれながら、その間で何かを作り続けるのだと思う。
◇ 俺の楽しみを奪うな
では、物書きとしての俺は、何をすればいいのか。
量子コンピュータが言語を学習し、文体を模倣し、物語の構造を解析する。
それは既に起きていることだし、これからもっと深く進んでいく。
そこまで考えて、俺の中で何かが止まった。
考えるのが、面白い。
知らない領域に踏み込んで、わからないまま言葉を探すのが、面白い。
書いた文章が誰かの体温に触れる瞬間を想像するのが、面白い。
その面白さを、誰かに奪われる筋合いはない。
量子コンピュータにも、AIにも、未来の技術的特異点にも。
神が置いたモノリスという事実と、神の子が眼前で湖を渡るという行為は、違う。
ありがたさと神々しさは、別の現象だ。
人が心を奪われるのはどちらか。
俺が書くのは、演奏の一種だ。
ギターに感情をのせるのも、この思考をキーボードで叩くのも、俺のものだ。
量子力学が何と言おうと、その一点だけは揺らがない。
世界がどう変わろうと、御託を並べながら書き続けるさ。
それが、今のところ唯一の答えだ。