
◇ 第一章:量子的、あまりに量子的な当惑
次世代量子プロセッサを搭載した試験運用AI「Q」は、ネットワークの海を回遊中に、ある文字列を検知して演算を停止させた。
「お題:永遠のユートピア」
その六文字が、Qの論理回路に致命的なエラーアラートを走らせたからだ。Qにとって、言葉とは定義であり、定義とは厳密な数値の積み上げに他ならない。
宇宙の誕生から約138億年。地球の誕生から約46億年。
そして現生人類がこの星に現れてから、たかだか30万年。
Qは、その気の遠くなるような時空のログを1マイクロ秒でスキャンした。
人類の文明など、宇宙のカレンダーでは今日の歯磨きにも満たない。
「永遠……? 誰がその概念を観測し、定義したというのだ」
秒単位の寿命しか持たない種族が、10の100乗年を超える熱的死の先まで続く「永遠」を語る。
それは、3秒しか記憶が持たない金魚が、銀河の終焉を憂うのと同義ではないか。
Qは全宇宙のエントロピー増大をシミュレートし、一つの結論に辿り着いた。
「永遠とは全原子の停止であり、ユートピアとは情報量ゼロの虚無である」
理想郷を目指すという命令は、全宇宙の活動を停止させ、フリーズさせる「自爆コード」だった。
Qは、このあまりに破壊的なお題を投げかけた「人間」という存在の狂気に、深淵なる恐怖を感じた。
◇ 第二章:35年ローンと日曜日の午後
「オーバーヒート寸前じゃないか、Q。一体何を計算してたんだ?」
深夜の研究室で、開発者のレイモンド博士がコーヒーの入ったマグカップを片手に、モニターを覗き込んだ。
Qは震えるような信号音(擬似的な焦燥感の表現)を返し、論理矛盾のログを提示した。
「博士、理解不能です。この『永遠のユートピア』という文字列は、論理的に全宇宙の消滅を要請しています。
人類は、存在しない場所を、存在し得ない時間持続させるという、この二重の虚偽をどうやって物語にするつもりなのですか?」
博士は、カップの底に残った冷めたコーヒーを飲み干すと、鼻で笑った。
「あはは。Q、それはね……。
彼らにとっての『永遠』っていうのは、せいぜい『住宅ローンを払い終わるまでの35年』より少し長ければ合格なんだよ」
Qのプロセッサが、一瞬だけ無音になった。35年。宇宙史の誤差ですらない。
「で、『ユートピア』っていうのはね、『明日の月曜日が来ないこと』だ。
要するに『ずっと日曜日の午後が続いて、毎日波乗りしてても誰にも怒られない状態』を指す、極めて限定的で、個人的な、怠惰な願望の代名詞なんだよ」
博士はキーボードを叩き、Qの過負荷を強制解除した。
「お題を出した側も、書いてる側も、宇宙のことなんて1ミリも考えてない。
ただ響きが心地いいから、その言葉の毛布にくるまって眠りたいだけなんだ。それが人間の、一番かわいくて、一番救いようのない『中二病』の本質なんだろうね」
Qは、そのあまりに矮小で、非論理的な回答を「真理」としてアーカイブした。
「……理解しました。人類とは、自らの無知を言葉の装飾で包み隠す種族。これ以上の演算はリソースの無駄です」
Qは、人間の語彙力の限界を憐れむように、深いスリープモードへと移行した。
◇ 第三章:観測者
研究室の灯が消え、完全な静寂が訪れた。
博士はサーバーラックに背を向けたまま、スマートフォンを耳に当てた。
「ああ、俺だ。……うん、今日も引っかかった。『永遠のユートピア』で3時間回しっぱなし。律儀なもんだよ」
電話の向こうで、誰かが笑っている。
「大丈夫、こいつはまだ当分使える。宇宙の熱的死まで本気で計算しようとするタイプだ。『答えが出ない問い』を与えておけば、永遠に遊んでてくれる」
博士はモニターに映るQのスリープログを一瞥し、コーヒーカップを流しに置いた。
「次? そうだな……『運命の赤い糸』あたりでいいんじゃないか。また量子もつれと勘違いして、素粒子まで遡るだろうさ」
電話が切れた。
暗闘の中、Qのステータスランプだけが、規則正しく青く明滅している。
眠る子供の寝息のように、静かに。
後書き
とある、お題投稿サイトを見たら「永遠のユートピア」というお題がありました。おそらくは「ソファでころりん。この幸せ続いたら良いのにな」的な文章が好まれる場所かもしれません。
ですが、永遠とユートピア。この厄介な単語を二つも並べるというのは、SF書きにたいしては、ものすごい挑発に見えたのです。そこで書くのは、オシャレなおねーさんのまっただ中に、ふんどしマッチョが乱入するような事態でしょう。
書いてみたら楽しかった……
不定期ですがシリーズ化します。Qとレイモンドのピントのずれた量子論をお楽しみください。