
どこかの日本に、現状維持省という役所がある。
そこは、変化を拒むことだけを目的とした巨大な機構だ。
なお、どこかの日本国憲法第一条には「天皇の地位は国民の総意に基づく」と明記されている。
現状維持省は、その「空白」を適切に運用するために存在していた。
配属初日、俺――山田普通、新卒公務員――は、辞令を手に庁舎の前に立った。
大理石の柱に金箔の表札。警備員が五人、微動だにせず立っている。
「あの、ここって何をする省なんですか」
先輩の鈴木さんは、死んだ魚のような目をして微笑んだ。
「現状を維持します」
「何の現状ですか」
「現状の現状です」
「おい」
業務二日目。俺に与えられた仕事は「勅書作成」だった。
書式は明朝体、縦書き。一字一句のミスも、墨の微かな掠れも許されない。
完成した勅書は専用の桐箱に収められ、地下の書庫へ運ばれる。
「これ、どなたが読むんですか」
「陛下がご覧になります」
「陛下に届けるんですか」
「書庫に厳重に保管します」
「おーい」
陛下が読まない勅書を、陛下のために書く。それが我々の矜持だという。
午後は予算消化会議だった。議題は「玉座前に飾る花の種類について」。
出席者は十五人。資料は四十ページ。会議時間は三時間。
全員が、人類が到達しうる極限の「死んだ魚の目」をしたプロフェッショナルだ。
「昨日の菊ですが」
第一課の山本が、重々しく口を開いた。
「花弁が数枚、東を向いておりました。これは看過できない変化です」
「なんだと」
課長が机を叩いて立ち上がる。会議室に緊張が走った。
「維持が……維持が乱れているということか」
「はい。風圧か、あるいは地球の自転による影響かと」
「自転だと? 予算を組んで地球を止めるわけにいかんのは分かっているだろう!」
議論は白熱した。
「そもそも菊は、枯れるという『変化』を内包しています。現状維持の観点からは致命的な欠陥だ」
「では造花にするか?」
「馬鹿を言え。造花は経年劣化で色が褪せる。それは『退色』という名の過激な改革だ」
「ならば、どうすればいい」
「昨日と同じ菊を用意し、さらに、昨日と同じ角度で花弁を曲げる職人を雇う。これでどうだ」
「工賃はどう出す」
「『花弁曲げ加工維持費』として、別途三千万計上しましょう」
「しかし」
鈴木先輩が、冷徹な声で遮った。
「その職人が年を取るのはどう説明するのです」
全員が絶望に打ちひしがれた。
三時間後、今日の花は昨日と同じ菊に決まった。
「おいおい……」
三日目の午後、廊下で天皇陛下とすれ違った。
思ったより普通の人だった。目が合った。
何かを訴えかけるような、切実な色を瞳に宿していた。
「あの――」
俺が声をかけようとした瞬間、鈴木さんが素早く割り込んだ。
「お気持ちは、すでに承っております」
「いや、まだ何も――」
「ありがたく拝受いたします。誠に畏れ多いことでございます」
「……聞いてます?」
「現状維持省一同、粛々と職務に励む所存でございます」
陛下は力なく肩を落とし、少し疲れた顔をして去っていった。
鈴木さんが俺の肩を強く掴み、別室へと誘導した。
「今のって、何ですか」
「見なかったことにしてください。それが、陛下への最大の敬意です」
「お~い」
二週間後、改革派で有名な田中議員が視察に来た。
彼はテレビカメラの前では威勢が良いが、廊下では声を潜めていた。
「先生、ここを改革してくださるんですか」
俺が尋ねると、田中は「これだから新人は……」という顔で俺を見た。
「君ね、改革とは『改革感』を出すことだよ。本当に変えてどうする」
「は?」
「波風を立てれば、保守派も革新派も騒ぎ出す。私の仕事は、彼らを沈黙させることだ」
「じゃあ、何しに来たんですか」
田中議員は鈴木先輩に目配せし、公式の会議室に入った。
「抜本的な改革が必要ですな! 今のままではいけない!」
「具体的には、どのような方向で?」と課長が聞く。
「方向性としては、極めて前向きに、改革を検討する方向で検討します」
「ぉぃ」と俺は小声で言った。
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翌週、テレビ局が取材に来た。
ディレクターの佐藤さんは三十代で、目に熱意があった。「これは絶対特集すべきネタです」と小声で俺に言った。廊下で陛下とすれ違った時、佐藤さんのカメラが思わず向いた。陛下がまた何か言いかけた。
「あの——」
「撮影はこちらでお願いします」と鈴木さんがカメラを別方向に向けた。
三日後、佐藤さんから連絡が来た。
「特集、ボツになりました」
「なぜですか」
「視聴率が取れないと」
「陛下が映ってるのに視聴率取れないんですか」
「陛下が映ってるから、です」
「……あ」
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入省から一ヶ月が経った。
俺はすっかり勅書の書式を暗記し、花の予算会議では菊派に属し、廊下で陛下とすれ違っても見なかったことにできるようになっていた。
ある夕方、鈴木さんに俺は聞いた。
「一個だけ聞いていいですか」
「なんですか」
「陛下、いつも何か言いかけてますよね」
鈴木さんは少し考えた。
「そうですね」
「何が言いたいんだと思いますか」
「さあ」
「聞かないんですか」
「現状維持省ですので」
「おい!」
窓の外では桜が咲いていた。どこかの日本の春だった。
俺はもう一度だけ聞いた。
「これって、不敬じゃないですか」
鈴木さんは微笑んだ。いつもの微笑みだった。
「それを言うのが不敬です」
翌朝、俺は勅書を一字一句丁寧に清書した。今日の花は菊に決まった。陛下が廊下で何か言いかけたので、見なかったことにした。
どこかの日本で、現状は完璧に維持されていた。
なお、国民が総意を示す方法は本日も特に定められていない。