
◇ はじめに
偉大な作品を残したからといって、その作者が偉大な人格者であるとは限らない。 むしろ、人格が破綻しているからこそ、その歪みから黄金のような作品が生まれることもあったのでしょう。
私が個人的に「クズ認定」あるいは「神認定」している作家たちを、愛と毒を込めて紹介します。
◇ 石川啄木:すり替えの天才と、教科書の共犯関係
まず、近代日本文学が生んだ最高の「クズ」、石川啄木です。 彼こそは、現代のSNSにいれば間違いなくバズりの天才となっていたんじゃないかな。
彼の手口はこうだ。 働きたくない、金が欲しい、俺を認めろ。 そんな極めて個人的で浅ましい欲望を、天才的な言語センスによって「社会への反逆」や「時代の閉塞感」に見事にすり替える。
そのクズっぷりを象徴するエピソードがある。 彼は親友・金田一京助から、涙ながらに借金を重ねた。 「生活が苦しい」「家族を養わねばならない」 そう言って巻き上げた金で、奴は何をしたか。
一直線に浅草の娼館へ向かい、女遊びをやっちゃったのである。
ここからが奴の真骨頂だ。 散財した彼は、悪びれる様子もなくこう言い放つ。
「俺が遊郭で金を使うのは、この国に希望がないからだ」
自分の性欲と浪費癖を、なんと「国家の閉塞感」という壮大な社会問題にすり替えたのだ。 この責任転嫁のスピードと論理の飛躍、まさに天才である。
しかし、もっと傑作なのは、後世の教科書や解説が、このクズの論理を真に受けて――あるいは共犯関係となって――こう記述することだ。
「当時の閉塞的な社会状況が、若き才能を苦悩させた」
はたらけどはたらけど猶 わが生活楽にならざり ぢつと手を見る
知ってるでしょ。これ若き天才の苦悩や時代の厳しさみたいに言われてるけど。 中身は、友達に生活できないとか、本を出版するとか言って金を借りて、ソープ行って散財してSNSに「働きたくないでござる」と投稿したようなものだよね。 しかし、ただの愚痴ではなく立派に文芸だった訳だけど、才能以外の面ではとんでもないクズ。 そして彼は、妻に見つからないよう「ローマ字日記」という鍵垢(裏垢)までやっていたのだしね。
その日記に「金田一、また本を売って金貸してくれた。良い奴」みたいな事を書いてる。
実際金田一は自分の蔵書や着物を売ったりして啄木に金を貸してやった(生活苦とかいうので)
はたらけどはたらけど猶 わが生活楽にならざり ぢつと手を見る
しごいてもしごても猶 我が欲望空にならざり ぢっと手を見る 賢者タイム
金田一さんが哀れだ……
啄木が「すり替え」の天才なら、教科書は「美化」の天才。 クズの戯言を、憂国の士の苦悩へと見事に翻訳している。そう思うと教科書の編纂を監督する文部科学省はかなりのクズだ。
けどね、あえて言おう。 啄木は現代のSNSに溢れる「承認欲求モンスター」とは決定的に違う。
現代のそれは、才能の不在を「いいね」という安価な燃料で埋め合わせる、出口のない共依存だ。 しかし啄木は違う。 彼は金田一に金を借り、女に溺れ、社会のせいにしながらも、最終的には「魂を削って言葉を研磨する」という、地獄のような孤独な作業から逃げなかった。
その凄絶なプロセスを経て吐き出された言葉だからこそ、彼の歌はただの「愚痴」ではなく「文学」として残り、教科書もそのクズっぷりを擁護せざるを得ないのだ。 作品さえ良ければ、クズでも教科書に載れる。 啄木は身をもってその「力」を証明した、糞ツイで歴史に残った偉大なるクズの大先輩である。
啄木は教科書にさえ、ある種の嘘を言わすほどの偉大なクズだったのである。
◇ 宮沢賢治:愛すべき無菌室の理想主義者
啄木が「汚れたクズ」なら、宮沢賢治は「純粋で美しいクズ」だ。
彼は裕福な質屋の長男(ボンボン)として生まれた引け目から、農民としての生活に憧れた。 しかし、その活動資金の出どころは、彼が忌み嫌った父の稼いだ金である。 貧しさに共感し、優雅に貧しさを演じるクズなエリート。
賢治は、理想に燃えて農業に挑むも、もともとの身体の弱さと育ちの良さが災いし、結局は体を壊して倒れてしまう。 有名な「雨ニモマケズ」は、雨にも風にも負けてしまったお坊ちゃんが、病床で夢見た「自分の理想の姿」に過ぎない。
現実の生活能力の欠如と、あまりに高潔すぎる精神。 そのギャップが生んだ悲劇(あるいは喜劇)が、彼の作品を透明な美しさで包んでいる。
その現実から、彼の作品の美しさに惹かれた事自体を後悔してはならない。これほどに純粋な男が書いた文学に惹かれるのは当然なのだから。
◇ 太宰治:「恥」をブランド化した寄生生物
啄木が社会のせいにするなら、「全部僕のせいなんです……」と泣き落とすのが太宰治だ。
女に金を貢がせ、心中未遂を繰り返し、自分だけが生き残る。 その「恥」や「ダメさ」すらもネタにして小説を書き、また女を惹きつける。 究極の「構ってちゃん」文学であり、自分の切り売りで生きるYouTuberの元祖のような存在。
ぶっちゃければ、構ってちゃん自殺の常習者にしてスペシャリスト。
しかし、その「弱さ」を極限まで突き詰めたからこそ、人間の心の奥底にある柔らかな部分を突き刺す。 ズルくて、弱くて、愛おしい。 現代のメンヘラ文学の教祖となるのも頷ける。
1970年という近代に切腹したことでも有名な三島由紀夫は、直接の対談で「太宰さんの文学は嫌いだ」と言ったというのは良くわかるし、自分のエッセイ集でも「治りたがらない病人」「自己欺瞞」「滅亡的センチメンタリズム」といった言葉で太宰を論じている。
切腹野郎とメンヘラ男じゃ、そりゃ合わないよね……
◇ 夏目漱石:お札の顔をしたDV夫
一転して、社会的な成功者である漱石。 しかし、その実態は家庭内における暴君だった。
外では立派な知識人として振る舞いながら、家ではヒステリーを起こし、妻や子供に当たり散らす。 現代なら即通報案件のDV野郎である。
そんな男の顔が、長きにわたって日本のお札の顔になっていたというブラックジョーク。 あの神経質な胃痛持ちの顔の裏には、逃げ場のない家族の悲鳴が隠されている。
もし君がお札になりたいのなら、人格がどうであろうが、日本は功績さえあれば、お札に顔を印刷してくれる実績を作ったクズの希望であるが、僕は子供の頃に漱石は偉い人みたいに教わってたから、その反動か漱石はなんだか嫌いだ(笑)
◇ 吉川英治:ヒーローのための「生贄」
ここまでは「実人生」のクズでしたが、吉川英治は「作家としての業」が深い。
代表作『宮本武蔵』。 彼は主人公の武蔵を「カッコいい俺様ヒーロー」として演出するために、ヒロインのお通を徹底的に利用した。
武蔵が剣の道に生きるストイックさを強調するには、それを追いかける女が必要だ。 そのためにお通という人格を無視し、ただ武蔵を追いかけ回すだけの「異常なストーカー」を装置として無慈悲に製造した。
吉川英治は、そのキャラクターへの愛のなさ故に僕のクズ認定に引っかかってしまった偉い人だ。
普通に考えてほしい、何故、幼馴染みの許嫁のお通がそこまで武蔵を追ってくる? 武蔵は一体お通になにをしたのだ? ちょっとエッチしちゃったくらいで歴史的超弩級ストーカーは生まれないだろう……?
では、なにをやってしまったのだ武蔵は。 そんな事を考えてしまうほど、物語の整合性を保てない怪人お通のキャラクター設計。 もはやあれは純潔や純粋と言った類いの物ではなく、意味不明の「追跡捕食系」のモンスターだ。 死闘を繰り広げる武者の後を平然と追ってくる、かよわい女など怪奇以外の何でもない。 武蔵が逃げるのも納得せざるを得ない。
そして、なぜ彼女は武蔵の居場所がわかるのか? GPSやSNSどころか、武蔵が人殺しやってるニュースさえない時代に、正確に追ってくる妖怪レベル。
ついでに言っちゃうと、武蔵も孤高の武芸者っていうよりは、ちょっと痛い就活野郎だった気はするけどね。 実際、その痛さ故にか、57歳で細川家に客分として迎えられるまで就活に成功しなかった履歴の持ち主です。
少し脱線するけど、史実の武蔵の残念さを書いてみましょう。 アイコンとして置かれた少年を斬った(吉岡一門との決闘)とか、一生殆ど風呂に入らない悪臭男だった話は有名ですね。 その風呂に入らない理由が「丸腰の入浴中に襲われるかもしれないから」ですが、じっさい江戸社会の武人はそんな夜盗のような事はしませんでした。 つまりそれは「俺なら入浴中の敵を襲うけどな」という、武蔵自身の卑しい「自己紹介乙」に過ぎなかったと思います。
極めつけの話があります。 武蔵は「徳川御三家の尾張藩なら、俺を高く買ってくれるはずだ」と意気揚々と就活に乗り込みます。 そこで殿様(義直)の御前で、藩の剣術師範と模擬戦をやることになりました。
普通なら実力を証明し勝ちつつ、相手も立てる(お見事でした、と頭を下げる)のが、社会人のビジネスマナーです。それは武士も同じ。 だが、武蔵は「お前みたいな雑魚は棒きれで十分」と、そこらの棒きれで師範をフルボッコにして、「俺TUEEE!どや!キラリ」とやったのです。 これでエリート企業(尾張藩)に就職できると思う痛い人だったのです。 当然、不採用です。
世の中が「これからは教養と政治だね」となっている江戸時代に、武蔵は「俺は一番効率よく人を殺せる!」とアピールして回っていた。 企業が「コンプライアンス重視」と言ってる時に、一人だけ「競合他社を物理的に破壊できます!」と、就活していたわけです。
つまり、異常なストーカー女と、社会常識のない就活失敗おじさんという「似たものカップル」って設定なら、アニメの『このすば(この素晴らしい世界に祝福を!)』みたいで面白いけど、当時の小説『宮本武蔵』は、大真面目な聖人設定だったからタチが悪い。 作家の都合でモンスターとカップリングさせられたお通が、可哀想過ぎます。
これは、ただ喧嘩の強かっただけの男を聖人に祭り上げるために、一人の女性キャラクターをモンスター化させるという、作家自身によるキャラクター虐待ではないか。この身勝手なヒロイズムの犠牲者、それがお通だ。
「追いすがる美少女に俺様興味なし。俺様かっけー」当時のカタルシスが透けて見えて、小説宮本武蔵は嫌いだ。 その辺り井上雄彦先生の作品でも、お通像を苦労しておられたように感じた。
◇ 清少納言:1000年先までマウントを取る女
ここからは、もはやクズという枠を超えた「災害」あるいは「超人」の話をしよう。
清少納言。 彼女のやったことはシンプルだ。 「私はこれが好き! センスいいでしょ!」 と叫んだだけです。
「春はあけぼの(春は夜明けがいいのよ、わかる?)」 この、ただの個人の好みを、圧倒的な筆力と自信で「日本の美意識のスタンダード」にまで押し上げてしまった。 なんという、センスと才能の暴力でしょう。
そのセンス一発で、1000年後の私たちまで「春はやっぱりあけぼのだよね」と思わされている。 彼女の掌の上で、日本人は1000年間踊らされているのだ。 とんだ化け物女です。
そんな彼女も宮廷のドロドロや嫌な事はあったのだろうが、あまり匂わせないので、余計に「やうやう白くなりゆく山ぎは」は、未だに美しいのかもしれません。
啄木や宮本武蔵と言った、怪物を斬ったことで、自分の毒気が抜けて、ますます清少納言が聖女に見えてきます(笑) 「好きなものは好き、嫌いなものはブス」と言い切るその強靭なエゴは、創作の賢者タイムにおける清涼剤のようにすら感じます。
◇ 柿本人麻呂:個人の匂いがしない「神」
最後に、柿本人麻呂。 ここまで紹介した作家たちは、良くも悪くも「人間臭い」。 欲があり、エゴがあり、欠落がある。
しかし、人麻呂にはそれがない。 彼にはスキャンダルもなければ、個人の顔さえ見えてこない。 残っているのは、完璧なリズムと格調を持った日本語だけ。
彼はもはや人間ではなく、日本語というOSそのもの、あるいは「日本語の神」という名のシステムなのかもしれない。 そこにはクズになるための「自我」さえ存在しない。
天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
この歌を最初に目撃したとき、僕は膝がガクッと折れた。 もうSFの領域とも思える解像度だ。 しかも文庫一冊10万文字を尽くしても叶わないと思わせる、三十一文字……の神業。
現代の生成AIは、膨大なデータを学習して「それっぽい答え」を出すけれど、人麻呂は1000年前にたった一人でそれを完成させていたような錯覚さえ起こさせる、文学のオーパーツみたいな人だと思う。 つまり私は人麻呂オタクなのである。
これにて、第一回文豪クズ列伝はおしまいです。
「Tはどうした?」なんて声も聞こえてきそうですが、もっと大物の変態クズ野郎(彼とかKとか)を出すと胃もたれするので、この手の読み物は「楽しい」くらいが丁度よいのです。
こうしてみると、啄木や太宰のどうしようもないクズっぷりが、急に人間らしい温かみを持って見えてくるから不思議だし、賢治などは愛おしささえ感じる。 私たちは、神にはなれない。 だからこそ、泥にまみれたクズたちの言葉に、どうしようもなく救われてしまうのかもしれない。