竹宮さんちの創作事情

音楽と物語の狭間を彷徨うクリエイターの実験室 

土地のない地図


◇ 地図の話

地図は嘘をつかない。
でも、地図を眺めることと、実際にその土地を歩くことは、まったく別の行為だ。

泥の匂いも、石畳の硬さも、坂の途中で膝が笑う感覚も、地図には一切載っていない。
それでも地図は地図として有能で、俺はそれを否定するつもりは毛頭ない。

問題は、地図を持った人間が「この土地のことなら俺が一番知っている」と言い出す瞬間だ。

◇ 水槽の中の正解

SNSというのは、どうも閉鎖的な水槽に似ている。
「実機はコスパが悪い」「シミュレーターで完全に再現できる」「誰それははこっちを使ってる」。

そういう声が水槽の中でぐるぐると循環し、やがて「正解」という沈殿物になっていく。
純粋な「好き」を発信すると、その沈殿物を盾にした何かが湧いてくる。

彼らにとって「ただ好きだから使っている」という自己完結は、どうやら脅威らしい。
自分たちの作ったヒエラルキーを、根本から無効化してしまうから。

俺にはその水槽の水が、少し濁って見える。

◇ 防音扉の向こう側

スマートフォンを伏せる。
Mark Vのスタンバイスイッチを弾き、ギターのボリュームノブをゆっくりと回す。

スピーカーキャビネットが微かに息を呑むようなホワイトノイズを吐き出し、部屋の空気が張り詰める。
ピックが弦に触れた瞬間――圧倒的な音が肉体に絡みつく。

その瞬間、頭にあるのは波形の話でも位相の最適解でもない。
指先から放たれた何かが、真空管という回路を経て、生々しい咆哮に変換される。

その物理的な快楽だけだ。
コスパや効率という小さな定規では、このヒリつくような一瞬を測れない。

エミュとは、この獣を安全な檻に入れ、綺麗に剥製化した結果のデータだ。
本物の熱も、匂いも、痛みを伴うような音圧も知らないまま、画面の数値だけで他者を排斥する。

そんなものと、どう対話するんだ。

◇ フレンズへ

「真空管が焼ける匂いが好き」「キャビネットが空気を震わせる、あの理不尽な重低音がたまらない」。
それだけでいい。

誰かの都合から生まれた怪しい「正解」に、付き合う義理はない。
地図の精度を競っている連中と、同じ土俵に乗る必要もない。

俺たちは実際に、その土地を歩いている。
泥の匂いも、坂の途中で膝が笑う感覚も、知っている側にいる。

ただそれだけの話だ。