
毎朝、駅の入口に男が立っている。
ベトナム人だろうか。わからない。清潔でも不潔でもなく、個性と呼べるものが何一つない。服も、肌も、立ち姿も、テクスチャがない。
「いらっしゃい」
男は小さな声で言う。誰にともなく。なんの熱も感じない、切実さもなく、ただその音だけが、駅の雑踏に溶けていく。
私は最初、薬屋だと思った。駅前で、と苦笑いして、すぐに別の理由を探した。宗教。縄張り。不法就労。どれもつまらなかった。どれも違うと何かが告げた。
*
男を観察するようになって、三日が経った。
誰も彼を見ていない。いや、見えているはずなのに、見ていない。視線が滑る。記憶に引っかからない。私だけが、なぜか彼を認識してしまった。
そのうち気づいた。彼はそこに、無意味として存在するよう強制されている。その空白が、朝の通勤客のささくれた神経を、静かに中和している。
街には、痛みがある。気づいていないだけで、どこかに処方箋があるはずだ。
それに気がついた瞬間、私の解像度が上がった。人々が薬に酔った家畜に見えた。街のノイズが耳障りになった。
私だけに、それは効かなくなっていた。
*
ある朝、男の耳元で囁いた。
「いらっしゃい以外に、言えることはないのか」
男は一瞬だけ、こちらを向いた。
目が、空っぽだった。鏡のように。そこに映っていたのは、ノートを握りしめた私だった。
握っているのか、握らされているのか、わからなくなった。
*
指先に、痺れがある。いつからかわからない。
私は書かされたのだ。
そしてそれはもう、あなたの血流の中にある。
あなたが陰性なら良いのだが。
◆ あとがき
暫くはエッセイも書けないと言いましたが、その舌の根も乾かぬうちにSSを書いてしまいました……。
ですが、これは仕方がないのです。駅の前でふと思いつき、ホームと電車の移動中にプロットを書き、気がつくと、帰宅してそのまま一気に清書を書き上げていました。
えぇ、書かされてしまったのです。本当に。